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日々の暮らし

生きづらさは どこからくるのか

生きづらい世の中だ、とよく言われる。
しかし、「何故」生きづらいのか、「何が」生きづらいのか掘りさげて
考える人は少なく、それを取り除こうとする人はさらに少ないのだろう。
そして世の中は生きづらいと形容されつづける。

 

 

小さいころ、朽ち果てたガードレールを見るのが悲しかった。
だから行楽地へ連れて行かれるのは、好きではありませんでした。

 

12歳のとき、原発の新聞広告を読みました。
いかに原発が安全なものか、が書いてあった。
これは危険なものだ、と子供心に思った。

 

 

ホームセンターへ行くと園芸用品コーナーがにぎわっている。
”農薬を使わないことには、こだわっています”という庶民のおばさまが、

化学肥料をPRしている映像が流れていた。

 

ラウンドアップとラウンドアップレディを何周か作付けして、使えなく

なった東欧の土地がある、という記事を読んだことがある。

けれど今探しても、その記事を見つけることができない。

 

丹波市で自然農法をしている友達が、同じ情報をふたたび見たいと思っ

ても、出てこないことがある、と言っていた。
米原市で林業をしている友達は、検索ワードを入れると、イヤそっち

方向の情報ちゃうねん!  という組み合わせワードがお勧めされる、と

言っていた。

 

 

何年か前JR大阪駅のトイレの前を通りかかったら、
”右が女子トイレ、左が男子トイレです”というアナウンスが流れるよう

になっていた。
誰かに親切にしてあげることが出来なくなっちゃった、と思った。

 

私が目が不自由だったら、アナウンスをありがたいと思ったかもしれない。

見知らぬ人にトイレの入り口を聞くなんて、そんなカッコ悪いことできない

と思うかもしれない。

でもこのアナウンスは、イヤな思いをすることから救ってくれたかわりに、

勇気を出して通りすがりの人に声をかける機会を奪ってしまった。

そうして人と人が助け合う機会が失われてゆく。

 

 

目が不自由な辛さは想像することしかできないので、
自分が生きづらいと感じることは何だろう?と考えてみた。

 

列挙してみた。

 

-略-

 

それは解決できないことばかりでしたが、自分なりに「生きづらさ」から

遠ざかろうと、視点を変えようと、努力中でした。

 

「ガードレールを見なかったことにする」努力も、してみたことがあります。
結果、心身が壊れてゆきました。
このやり方は自分に向いてない。

ガードレールからは目をそらさず、自分なりの折り合いのつけかたを模索する

ことにしました。

 

 

なお、過去の時代と比べてみると、生きづらいと形容される昨今も、

案外そうではないと思えました。

 

戦中は?
戦後は?
高度成長期は?

 

まだ自分次第で自分の生きづらさをなんとかできる時代かも、と思う。

 

駅や車内で、頭の至近距離でスマホを操作する輩から逃げていたけれど、
コロナでその心配が減ったし。

買い物後に、自動的にビニール袋が出てくることがなくなったし。
(店内はビニール個装にあふれたままだけど。)

 

バツイチでも、シングルマザーでも、社会の構成員とみなが思っていて

あっけらかんと できています。

子供のころ、親戚のなかに未婚のおばが1人いました。

母はその人の話題になると、なぜか声をひそめるのでした。

 

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